昭和46年3月15日 朝の御理解

御理解第11節「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ」



 「神は天地の守りじゃから」。ああー、神様と天地は、ああー、一体の物。天地から離れることはできぬと仰る。言うなら、天地の心である。ね、「神は天地の守りじゃから離れることはできぬぞ」、ね、天地と神様が別々に御座ると言うのではない。他所の方から天地が見守っておると言うのではない。「離れることはできぬ」と、一体の物とある。地の神様の働きを私共は頂いておるほどしてあり、そこで、うー、神様が私共を、例え天地の守りをして下さってあるように、私共の守りをしておって下さる。いわゆる、御守護の中にあるというわけですね。
 神様の御守護、お守りの中にあるのだと、そこで話を聞いただけでは解りませんから、私共は信心をする事によって、(たいきん?)を開く事によって、なるほど神様の御守護を受けておるんだなと、ここでは知るのではなく、悟るのです。天地の御守護を受けておるんだなと悟らせて頂くところからおかげが受けられる。またの御教えに「神の綱が切れたと言うが、神からは切らぬ。氏子から切るな」と仰せられる御教えがありますね、「神の綱が切れたと言うが、神からは切らぬ。氏子から切るな」と、してみるとこの前のところがですね、なるほど神様は天地の守りであり、言うなら氏子の守りをして、私共の、うーん、お守りをして下さっておる、御守護を下さっておる。
 けれども、その神様のお守りを受けておりながら、おかげを頂きながら、神の綱が切れたと言うまあ言うなら神も仏もあるもんかとこう言う。ね、「神からは切らぬ氏子から切るな」と、だからそのような神様の、もう不思議な働きの中に私共がありましても、ね、私共が神も仏もあるもんかと言うたり、神の綱が切れたと言うたら、切れたと同じ事になるわけですね。
 「神は天地の守りじゃから離れることはできぬ」、私共から離れなさるという事はできないという事になりますけれども、ね、私共が神も仏もあるもんかという事になったり、神の綱が切れたという事になると氏子には、うー、神様も、うーん、お働きも受けにくくなってくると。まあ例えば親に手を引かれて、うーん、まあ親の守りを、の中にある、でもその、例えば、親の手を振り切って行くならば、仕方がないようなものではないでしょうかね。
 危ない危ないと言うて後から(ぬけいけのも?)、うーん、手を振り切って、あのー、遊びに、(まあほんに?)事故に遭う、死んだとか、交通事故に遭って死んだとかいう事になる。そのへんのところが非常に、いー、今のところですね。神様は天地の守りであり、私共を御守護下さってあるんだ、そこで天地の守りであるという事、言わば神様の御守護を受けておる私達であると、悟らしてもらうという事。
 なるほど神様の御守護の中にあるのだなと、ここでそういう、例えば神様も守り通し、守っておって下さるのであるからこちらも守られ通し、守られておるという心がなからなければならんということになります。ね。そこで例えて言うと、こういう事になるんじゃないでしょうかね。
 神様と私共という信心さして頂いておかげを受ける。えー、私の中にいつもあるんだというふうな、あのー、頂き方というのでね、えー、「思い出すようじゃほれよが薄い、思い出ささず忘れずに」、これは都都逸の文句ですよね。「思い出すようじゃほれよが薄い」、と「思い出さずに忘れずに」と、もういつも私の心の中にある、かかり通し、あり通しだと、というところまで信心、いや私共と神様という関係はそこまでいかなければいけない。
 時々でもただ自分が(よわね?)する時だけでも思い出さな事じゃできぬと言うのである。もう神様がお留守になっておるような事では、できんと。そこが、ね、非常によーく真ん中に、いわゆる考えとともにあるという、そこからしかです、本当のなるほど神様の御守護を受けておるんだなあという実感をあえてまいりましょう。
 それは事実を言うと、うかつにしておっても神様がちゃんと先回りをしておかげをくださるという事実はあります。いやもう私共の場合はそればっかりのような感じである。ただ信心さして頂いておる、熱心に取次を頂いておる、毎日お参りをしておるというだけでね、もう実を言うたら神様がおかげを下さってあるんですけれども、もうそこんところを厳密に言うと、今申しますように、「思い出さずに忘れずに」というようなものが内容にだんだんできていく事が有難いのです。ね。
 そこから有難いというものが生まれてき、また、有難いという体験も積んで行く事ができる。そこでね、私共がやはりおかげを、なるほどおかげじゃなと思わしてもらうおかげを受けなければならん。ね、やはりおかげを受けなければ、話を聞いてなるほどと合点しただけではいかん。ただおかげを受けなければ、そこに、しかもそれを受ける、受けて、えー、受けて、受け続けて行くお繰り合わせを頂かなければならない。
 私は、うーん、昨夜、お夢の中に、うーん、こげなわたアメを頂いた。あのー、もう今頃、うじき花だと思うんですけども、きんしん花というのがございますね、黄ない花。きんしんからもういっぱい、うーん、咲き乱れておると言うか、おー、ところを頂いた。あれはお夢だか御心眼だかどちらともつかんような感じで頂いた。どういう事か全然分からんかった。
 今朝、御祈念中その事を思い出させて頂いてね、御祈念中に、はあ、そげなふうなきんしん花がいっぱい咲き乱れておるお夢を頂いたとね、はあそういう事であっただろうかと思うてね、あのー、思わせて頂きよったら、私先日、日田の「綾部?」さんのところへ、えー、参りました、神様の御用で。その時に、えー、いわゆる、うーん、もうそれこそ日田一番と、まあ天狗さんになるほどしの(たんなんめのき?)があります。綾部さんに物開けてから、その、もう少し、いー、そばかかった、まあ花ではありますけれども、開けて見せて頂いた。寒いからまだ下に敷いておったんですけれども、閉めたら大きな一枚ガラスの、おー、ガラス戸にですね、下が擦りガラスになっておる、その擦りガラスに、その目の窪みがこう映っておるんです、花瓶のように。それが何とも言えん、いや開けてみた実際のね、その梅の木よりもその木よりもです、その影に座敷の方から見せて頂いて、その影の方がむしろ、不浄であっていいなあと仰る、
 言うても、えー、影に認めさして頂いたんですけどね、そのところの場面を頂く。ね、私そこでキンセン花が本当に咲き乱れておる、おー、お夢を頂いて、どういう事かわけが分からなかったけど、どういう事かと思うたら、(あるぜのところ?)で見せて頂いたり感じさせて頂いたりしたその、今の(ごぼくもみの?)花が、ああー、擦りガラスの大きなガラスといい、(こくいきっておる?)、それこそ限りないように美しく、何とも言えん風情で、えー、あったその場面を頂かして頂いて、ははあこういう事だなあと思うた。信心に、まず信心ができればね、これにはおかげが必ず伴うんだと頂けますよね、皆のそのしめの信心とは一つも願わずに、信心を分からして下さいとは願わずに、ああー、ただおかげだけを求める。信心の実態というものはね、ここに一尺あるならば神がすぐにまた一尺、これはもう当然神が命ずる、願わんでも。
 ところが実際は私共の信心というものはです、遅々として進まず、ね、信心の実態というものは、ああー、それこそ、お粗末な事である、ね。例えばここに金銭の、私はキンセン花という事は金銭、お金の事だと思うんですよね。(かほど?)お願いいたします、おかげのお繰り合わせをお願いしますとこうお願いしても、さあ受け物を作りなさいと、皆さんは実態の方が先だと言うて、まあ言うならば、うーん、影絵に描いた餅を示すような事を、おー、言うておったんでは、私共はおかげは、うー、植える事ができない事になる。ね、信心はできませんけれども、このようなおかげを頂いて、信心はできませんのに、勿体無いほどしのおかげを頂いてという事にならなければ、ね、そこで私はもう、ほほう、これはもう信心、信心と言うて信心ができなければおかげをやらんぞと言う神様ではないという事。いや、むしろその、影絵に、絵の様に映っておるその影こそが、返って風情があるんだという事。
 これは金銭だけの事ではないすね、(きにこんくるだって?)同じです。一生懸命お願いをする、改まれ改まれ改まらなければやらんぞと、拝まなければやらんぞと、しっかり修行しなければやらんぞと、まあ言うてはおられてもです、言うならそれだけの事ができなくてもやはりおかげを受けておる、事実がある。そこで問題はね、その受けたおかげの、言わば処理法とでも申しましょうかね、信心もできませんのに、5年もお願いをさして頂いて、健康のおかげを頂いた。信心もできませんのに、おかげを頂いて、金銭のお繰り合わせを頂いた。いわゆる、信心の方もできんけれども、おかげを受けた。そのおかげをね、私共はもう一遍願うとるから良いではなくて、繰り返し繰り返し願わなければいけないというような事を今日は感じた、御祈念中に、ね、どうぞ健康のおかげを頂かして下さいと、金銭のお繰り合わせを頂かして下さいと、いついつまでにいくらいくらいりますと、どうぞおかげを頂かして下さいと、もう繰り返し繰り返し願わにゃいけん、もう繰り返し繰り返し願っておる内にです、ね、実際は「神様は離れる事はでけんと仰る」神様がです、ね、いつも私の心に頂き通し、頂く事ができる。ね。
 もう離されない。頭から、もう言うなら寝ても覚めても、忘れられない神様であるわけで、その毎日の問題が忘れられない。はあ、とこうおかげ頂きたい、これだけはいつも自分の心の中にある。だからそれはあっただけではならん。ここにこれこれのお繰り合わせを頂かなければならんが、お金がおればと言うならそれを絶えず祈り願わなければならん。しかも願いぬかなければいけん。さあ、願いぬいておる間、神様は離れなさるわけにはいかんわけです。ね。
 そのようにしてです、言うならおかげを受けるといたします。なるほど神様は守り通し守っておって下さるんだなあ、私の心から離れなさる事はない、できんのだなあという事は実感として分かれてくる。神の綱が切れたと言うたり、ね、神も仏もあるもんかと言わんで済む事になるのだと、ね、そこでですよ、ね。
 その金銭のお繰り合わせと言うか金銭と立ておる時に、その金銭のおかげごとを頂いたから、金銭のおかげを頂きたい。まあ、えー、こればかりはいくらあっても、おー、邪魔になるもんじゃありませんからね。もうそれこそ願うより願っていいと思うんですね。ね。但しその頂いたおかげがね、返って、自分の重荷になったり、またはそれで人を傷つけたり、返って曇った結果になるような事であっては、しかしおかげは受けられんと思いますね。
 金銭のおかげを信心もでけませんのにお願いばかりですみませんと、まあ、いう気持ちで神様に一生懸命おすがりをする、繰り返し繰り返し願う。けれどもその、例えばお金がです、ね、先日からも頂きますように、生きた事に使えれる稽古と、または確信とを持って行かなければならないという事。どのように沢山のおかげを頂きましても、ね、それを生きた使い方、ね。
 昨日、昨日、一昨日、十三日会です。ああー、そこである婦人の方が参ってまいりました、もう信心も長いですけれども、おー、大変熱心に、まあ月何回か参って来るみたいですけれども。まあその、おー、町で、あのー、(ふしょう?)、おー、まあ財閥。まあどれだけ金があるか分からんというくらいに持っておる。そこの、おー、お爺さんという方がもう80超えとったでしょうが、毎日、いー、散歩に出られる。ならもう健康が自慢であると、その方はだいたい糖尿病でしたけれどもね、
 実に摂生だと、もうとにかく口の(じょうがい?)があり、運動を適当になさる。だから返って糖尿病で長生きをすると言われるぐらいに、あの、まあ健康な方であった。それが、ある朝、散歩に出られましてね、まあ朝早いですから、たいして自動車が多くなかったでしょうけれども、本当に、自動車に跳ねられなさったから即死ですよ、80で。もうその方はどれだけ金があるか分からない。
 そして、そのー、子孫の、おー、相続ができていなかったからその後が大変な事であった。その時に一生懸命、まあお繰り合わせを願いに見えられた。おかげを頂いてその事も済んだ、税金も一通り納めた。それからどうぞそういうふうな交通事故で亡くなられた、お金も相当、莫大な金が入ってきた、ね。
 ですから、そこの(よっぽ?)の地所に住む方を導いたという方おられますから、うーん、この方にね、全部、そのー、接客が少し(しんしんかんき?)になりますから、あー、普通では私はこんな事は言わんけれども、ね、これだけのおかげを頂いて、これだけの財産をあんた、ああー、頂いて、ね、これは本当に生きた事に使わせて頂かなければ相すまん、神様にも御礼をさしてもらわにゃあすまんよと言うて、まあ今言うけれども、分かられなかった。
 町に、うーん、沢山の金を、おー、まあ寄付されました。まあその頃、丁度ここで生神とか、生きた使い方といったような事でお話頂いて準備しておられる、もうこげな神金はないと、皆さんはそのへんのところをね、町なら町に寄付したらそれで、いかにも生神のごとと思うでしょう。(ほんなこっちゃけんしっちゃないです?)、町自体が生きた金に使いきらんだけではなくてです、それをね、どこの誰々さんがこれこれを、例えば寄付をしたとか献納したとかいうね、その名前を売るというその行為が神の機感にかなわん。だからもう、これは死に金どころだらな返って神様に御無礼になるような事を、そうして自分は徳徳としておる。
 ところが,この13日の、うーん、13日会にそのお願いをして見えて、今朝方から、先生、これを(うにをとられた?)と言うんです。長男の方に、私は着物を仕立てて着せてやるところを頂いた。お母さんがね、ところがその着物にもうそれこそ、びっしゃりマチ針が刺さっとる。はあ、危ないこげな物を着せてはと言うて、こう一本一本抜きよるところを頂きました。私はそれを頂いてから、もう本当に、うーん、こげもはっきり頂いてから分からんだろうかと思うくらいに思いましたですね。
 そのお爺さんが亡くなられる前にご主人も亡くなっております。それで、子供三人でしょうか、それに奥さん、ね、結局、その財産は子供足す孫足す、そして自分のためになる、その三人にまあ、譲るわけなんですけれども、さあその譲った金ではそれこそ着物を着せるけれども、針がいっぱい刺さっておる、言うならば、ばい菌が付いておるぼた餅を子供に与えるようなもの。ね。その金で買い、節用をする、財産を。ね、そこを本当に少し分からして頂いてです、ね、本当の意味においての生きた金に使えれる術というものを知っておったら有り難い事であろう、その金が生きて来るであろう、その金がまた、ね、生きて子供達の上に良い働きをする事であろうけれども、さあそこが分からん。
 ね、今日私が要するに、その、沢山のキンセン花のお知らせを頂いて思う事はね、沢山な、言わば、金銭の売る事が合楽に今、思い立たれておるわけです。ね、御本部の御造営も去る事ながら、ここの、言わば、あー、お広前の拡張といったうような事が記念祭の前に、いー、まあ(よりより?)話がまとまっております。もう何回か、いよいよまあ決定的な、ああー、設計図も立てて来ておる。
 いくら金があっても足らんと言うところに合楽が、言わば直面して来たわけです。そこでね神様はこれは生まれ顔ならばどういう金銭のお繰り合わせでも頂けるんだという感じが致しました。昨日から今日にかけてのおかげ、それは信心はできてはいなくても、ね、いやむしろ例えば、ガラスの塗った(うも?)のくぼみじゃないですけれども、ね、尊い、言うならば風情のある事に使えれるおかげ。ね。
 言うならば、千歳一隅という言葉がありますが、ね、お広前御造営と言ったような事はもういつある事やら分からないほどしの事に遭わせて頂いとるんだけれども、おかげ頂きたいんだけれども、懐の中に金がないんではこんなに残念な事はない。ね。そこで神様は願え、願えと、昨夜から今朝にかけて私が頂いておるような感じがした。信心はできておらんでも願える。ね、願ってお繰り合わせを願えるという。「思い出さずに忘れずに」と言うほどに一つ思いつめて願えよと。
 そしておかげを頂きましたあかつきでもそれで怪我するような事では使えませんと、ね、そげん無駄な事には使えません。必ず、生きた金に使わせて頂きます、御造営が始まるなら御造営の、御造営費にでもお供えさして頂く、お役に立ちたい一念がです、信心はできんでも願うという事からです、おかげを頂く。はあ、神様が喜びなさる時に一心を賭ければこういうおかげが受けられるという事実をね、私共が踏まえての信心がもしできるとするならばです、ね、今日私が言う、「天地の守りじゃから離れることはできんぞ」と仰る神様がです、私共と(ふるのもの?)、離れられないもの、そういう私は実感もまた、自分の心の中にいよいよ、ね、これは分かって行くと言うのではなく、悟っていけれる事だとこう思います。
 これは私が修行中に一番実感してまいりました事はね、もうそれこそ、おー、(むせきじゅんおらうがごとい、ごとし?)という鳥でありましてもです、いよいよ御本部の月参りを致しておりましたから、毎月お参りをするという、後先になりますとね、ずっとお繰り合わせを頂いとったという事です、これだけは。さあ大祭が近付いて来たから大祭のお供えをしたい、うー、祭典費をお供えしたいと神様に願うともうこれだけは絶対おかげを受けたことです。
 そこで私がね、思うた事はです、ははあ、神様がお喜び頂ける事にならば神様はこのように言う事を聞いて下さるなという体験が積んで積んで積み上げて行く内にです、それがいわゆる私のようになっていく。ね。そこで私共がどれほどしの財産を頂かしてもらってもよいがその財産がです、ね、人を傷つけたり、返って困った結果になるような事ではなくてです、それが生き生きとして、神様もお喜び頂けるような事に、いわゆる生神の仕えれるおかげを頂きさえすればです、神様が喜んで頂くような事に両氏できれる確信ができればです、ね、神様は信心はできんでもおかげを下さるという事なんです。
 私はそれを、7年の体験でもうそれこそ、ね、こと神様事にだけならこのようにはっきり下さることができる力を持っておるのが神様なんです。けれども、私がこちらに願いよる事は、まーだまだそりゃあそげん急がんでよかと神様が仰るような事を、私共が一生懸命願っておるような場合はおかげになってない。(笑い)。
 皆さん近いうちに、言うならば御造営が開始されることでしょう。ですから、まあちょうど今ごろから一生懸命お願いをしよれば、ちょうどいい具合にお繰り合わせ頂くのじゃないでしょうか。いや、いよいよ必ず神様が下さると私は確信するね。ね、(そびゃこと?)神様がことに使わせて頂く、行じさして頂くんだと。ね、合楽の願いがそのまま、天地の願いである、神様の願いであるとまで言うて下さる。
 合楽で思い立たれる事はそのまま神様が思い立たれる事である。その御事業にですね、御御用をさして頂くという願いを立てさせて頂くならです、本気で、繰り返し繰り返しそれを願わして頂くならばです、神様はそれは猛々しそうにではあろうけれどもお繰り合わせを下さると私は思う。ね、今日はこの11節を、もう(せんじり、かんず?)の違ったところから頂きましたですね、「神は天地の守りじゃから離れることはできん」と。というほどしの神様なのだけれども、私共が、ね、神の綱が切れた言やあ、もう切れたも同然である。神も仏もあるもんかと言うたら、もうそこにはあるやらないやら分からん働きしか生まれてこないという事になる。
 だからその神様の御守護を受けておる事実像をです、実感として悟らしてもらう。ね、その手始めにまずおかげを受けなければばならないという事、なるほど神様げなと、ね、だからその願うおかげがです、ね、ただどうぞどうぞ言うだけではなくて、ね、頂いたあかつきの事が、これは健康の上においてもそうです。
 一切がおかげに繋がる事。ね。病人が健康のおかげを願った。願ったら、それが健康をです、ね、例えばけんかのために使うたり、ね、ろくでもない事にその健康を凝視するような事であってはならないという事なんです。ね、本当に神様の御用をさして頂く事のためにこの健康があるのだと。この財産はいつでも神様のお喜び頂ける御用の事のためにここにけれだけたくさんの、例えば財産なら財産が積み上げられてあるんだという思い込みができたらね、神様は限りなくおかげを下さる事だと私は思う。
 しかも私は昨日から思わせて頂いておる、ね、言わば、千歳一隅と、そういう、言うならば合楽だけではありません、御本部の御造営もそうですけれども、そういうチャンスとか、ね、いうものはいつもあるものではない。ね。神様のお喜び頂けれる事に行じする、これは私の体験で申しました、いよいよ、なら大祭だとか御本部参拝だという時には必ずおかげを下さると。それで私はどう言うたかと言うと神様が喜びて下さる事の、これが願いであるならば筋が通っておるならばね、神様はどういうおかげでも下さる事ができるんだなと言う、言わば確信ができてくる。
 その確信が力であると、その力が今の私のその力は何にでも使える力なのだと、ね、だからそういう時にです、ね、例えば金銭でも沢山、教会でいるといったような時にです、ね、そういう御用に本気で打ち込まして頂くという事はです、ね、さあこれで一つ、一徳受ける、人力頂くぞという弾みができなきゃならん事が分かります。ね。
 そういう例えばおかげを私共が頂かしてもらう時にですね、いよいよ神様を自分の心から、ああー、寸時も放さんで済むお繰り合わせ、自分の心の中に、それこそ(かんぐら?)とともにあるというおかげを頂かして頂いたら、ね、いわゆる信心の言うならば、実態、ね、言わば、ね、お役に立ちたいの一念がおかげをおかげとおかげを願った信心もできませんのに、ね、けれどもこれにはちゃんとした、言うなら、うーん、神様もお喜び頂けれる、筋が通っておる願いであるというところだけにおかげを頂く、ね、そういうおかげを頂き吸い取らして頂いて、ね、神様がいつも自分の心から離れておられない実感、いつも心の中に、金光様と身近にここに感じれるおかげ。そういう信心こそが私は、いわゆる信心の実際の姿、実態であろう、ね、信心の一切、信心の実態ができればこれはまた寝がわんでも頼まんでも、ね、その実態には神が宿す事はもう、おー、これはもう天地の法則ですから、間違いないおかげが受けられる。けれどもそこまで行かなければおかげが受けれられんというまではない。と言ったようなことを今日はこの11節から申しましたけどね、「神は天地の守りじゃから離れることはできん」と仰る神様でも私共でも、私共が手を振り切って行くような事になればやはり神様とても仕方がありなさらん事になるのです、ね。
 そこで今日は、言うならば頂いたおかげをね、生かして使えれる道を一つ先に覚える事が必要だということがある、わかりますね。これは私は、ああー、信心を実際に頂いて行くと言う事よりも見やすい事だと思います、ね。金の中でも生きた金の使い方をまず覚えるという事だと思います。そこから本当の信心のその過程としてですね、おかげを受けていけれるというふうに思うです。どうぞ。